![]() |
商工文化観光課 |
![]() |
||
| トップページへ > 商工文化観光課 > 最上徳内記念館 |
最上徳内記念館
![]() |
![]() |
| 最上徳内記念館 |
アイヌの館(チセ) |
| 村山市楯岡出身の北方探検家である最上徳内(もがみとくない・1755年〜1836年)は、江戸時代の後期、幕府の蝦夷地検分隊の一員として蝦夷地(北海道)に赴いたのが最初で、その後、択捉・ 国後などの北方諸島を含めて生涯で9回も訪れ調査を行い、探検家として高い評価を受けました。この偉大な業績を後世に伝えていくため、書物・測量器・北方の地図・択捉島に建立した標柱などの資料を展示しています。 また、最上徳内が北方を探検する際にアイヌの人達と寝食を共にし、アイヌの協力があって偉業を成功させることができました。このように当時アイヌの人々との交流を持っていた最上徳内を偲ぶために、住居全体が茅(葦)葺きのアイヌの住居(チセ)を敷地内に復元建立し、アイヌの生活用具等の展示もしています。 |
|
| ■開館時間 | 午前9時から午後5時まで(午後4時30分までに入館) |
| ■定休日 | 毎週水曜日・祝日の翌日・年末年始 |
| ■アクセス | ◇奥羽本線JR村山駅下車 |
| 東口からバス・タクシーで5分、西口から徒歩で15分 | |
| ◇山形空港から車で15分 |
|
| ■駐車場 | 施設館前に6台。西隣りの市役所駐車場に駐車可能(大型バスも) |
| ■入館料 | 大人300円・小中学生150円 |
| (団体15名以上〜:大人250円・小中学生100円) | |
| ■施設の概要 | ◇地階 : RC造〜展示室1・ホールなど 研修室 碑・胸像・歌碑・徳内基準点(経緯度標)
|
| ■案内図 |
|
| 〒995-0035 | |
| 住所 | 山形県村山市中央一丁目2番12号(位置図) |
| TEL | 0237−55−3003 |
| FAX | 0237−55−3630 |
|
(現在の村山市楯岡)に父、甚衛兵(または甚介)母、ス マの長男として生まれました。幼名を元吉といい天明5年 (1785)の幕府蝦夷地探検の前年に最上徳内と名乗り ました。字は子員、号は鶯谷、甑山、白虹斎と称し晩年に は億内とも呼ばれています。 家業は、農業のかたわらたばこ栽培を営み、青年期には 隣町谷地の津軽屋に奉公し、仙台・南部・津軽まで行商に 出かけたといわれています。父が、徳内に向かって「男子 たるものは、若干にして生涯の志を立つべきものである。 汝どのような心構えがあるか。」と聞いた際には、「蝦夷 一円、本朝開闢以来人倫の教導なしと聞いているが、願わ くば一度かの地に入り、かの土人に本朝農民のごとくに耕 作の諸事を教え蝦国を上国の風に習わしたい。」と語った というエピソードが残っています。また二十歳の時、東に そびえる甑岳に登り武士となる決心をしたとも言われてい ます。早くから蝦夷地への思いと武士になる志が芽生えて いました。徳内の精神ともいえる信念の強さがここから生み出されたものと思われます。 天明元年(1781)江戸に出た徳内は、たばこ屋に奉公しまもなく幕府の医官山田宗俊(図南)について医学を学び、その後、和算の師、永井正峯と算学修業に出かけますが正峯の病気のために中止となります。 この頃、徳内の生涯の師となる本多利明の音羽塾に入門、天文、測量、航海術を学び、かねてより考えていた蝦夷地への夢が、思わぬ算学修業中止により実現することとなりました。 天明4年(1784)幕府内では、ロシアの南下対策として蝦夷地の開拓と交易を目的とした蝦夷地検分・蝦夷地開拓の議が持ち上がり、老中田沼意次は蝦夷地探検隊を組織し、天明5年(1785)山口鉄五郎・庵原弥六・佐藤玄六郎・皆川沖右衛門・青島俊蔵の5人の普請役を蝦夷地に派遣することとなり、俊蔵と親しかった本多利明も参加することになっていましたが、急病のため利明の代理として最上徳内が、竿取りという身分で参加し歴史上に登場することになります。これ以後1809年まで9回の幕府蝦夷地探検に従事しました。 徳内が従事した蝦夷地探検の中で、重要なこととして天明6年(1786)の探検があげられます。徳内は、単身、エトロフ島に渡り、ここでロシア人が滞在していることを知ります。イジョヨ・サスノスコイ・ニケタの3人と出会い、千島が列島であることや欧州地誌を知ることになります。徳内はアイヌ民族の人達・ロシア人3名のほかただ一人の日本人でしたが、歌い、踊りあたたかな三か国人交流がなされました。徳内は、ロシア人を、クナシリ島に来ている隊長の青島俊蔵に会わせ、時期の遅れないうちにウルップ島の最北端まで渡り、日本で最初にウルップ島に渡海した人物となったのです。 寛政10年の蝦夷地探検では、徳内は駿河・遠州の山々の監察をしていましたが、急遽、蝦夷地探検を命ぜられました。この探検は幕府が蝦夷地を直轄地にするためであり、近藤重蔵が隊長となりクナシリ島からエトロフ島を回る渡海でした。この時、重蔵はまだ若く蝦夷地の経験がないため、徳内を加えてもらおうと幕府に要請しクナシリ島で徳内と出会い大いに徳内を歓迎しています。徳内と重蔵一行は蝦夷舟でエトロフ島に上陸し「大日本恵登呂府」の標柱を建立しました。歴史上初めてとなるエトロフ島までの日本領土宣言です。この二つの探検が徳内を国際的視野に立つ歴史上の重要人物たらしめているのです。 晩年徳内は、長崎から江戸参府としてオランダ商館長に随行してきたオランダ商館長医師シーボルトに出会います。会談の中で、日本・支那・西洋の数学やアイヌ民族の風俗・カラフトの地図などを渡しました。徳内は数十日間シーボルトとアイヌ語の共同編纂を行います。後にシーボルトは「尊敬すべき老人」「尊敬すべき老友」「今世紀における最も卓越した探検家」と高く評価しました。徳内はシーボルトの出会いから十年後天保7年(1836)浅草の田原町で82歳の生涯を閉じました。彼の墓は現在、本郷駒込蓬莱町の蓮光寺に葬られており東京都の指定文化財となっております。
最上徳内物語(PDF:212KB) |
| |上へ|トップページへ| |
|
|