本校の概要
児童数・学級数
本校の児童数は、次のとおりです。
学年 | 計 |
---|---|
1 年 | 84 |
2 年 | 71 |
3 年 | 88 |
4 年 | 87 |
5 年 | 85 |
6 年 | 77 |
計 | 492 |
楯岡小学校校歌
本校の校歌は、一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)の管理作品ではありません。
本ホームページへの本校校歌の掲載については、著作権者の権利を侵害する意図は全くありません。
1 位置・面積
村山市は山形県のほぼ中央に位置し、東西22.1キロメートル、面積196.59キロメートルであり、本校は村山市の西側、東経140度25分、北緯38度29分に位置しています。グラウンドの北側には、楯山があり、豊かな自然に囲まれた環境で、子供たちは学校生活を送っています。
2 沿革
本市の歴史は、室町時代、山形城主満家と末弟伊予満国が、西暦1390年、楯山に城を築き、楯岡どのと呼ばれ、八代続いた頃から明らかになっています。江戸中期、米・紅花・麻などが栽培され、これらの生産物の輸送は、すべて最上川にゆだねられていました。その後、慶長7年、羽州街道(旧国道13号)が開かれ、さらに、明治34年鉄道が敷かれるに至り、産業、文化は最上川から道路、鉄道へ、産物も紅花・麻から養蚕へと移り、中央市場へ進出していきました。昭和48年現在の国道13号線となるバイパスが開通し、平成に入るとさらに高速交通網が整備されてきました。産業も大きく様変わりし、工業団地の造成や養蚕からサクランボやラ・フランス等の果樹やスイカ栽培へ変化しています。
行政面では、明治11年、楯岡に北村山郡役所が設置されたのをはじめ、次々に諸官署が設けられ、北村山地区の行政中心都市として発展してきました。昭和29年11月1日、楯岡町、西郷、大倉、大久保、冨本、戸沢村の1町5か村が合併して、村山市が誕生、その後、袖崎、大高根村が合併し、住みよい田園都市と歩みをすすめてきました。近年、人口が減少傾向にありますが、最上徳内記念館の建設や徳内まつりなど、新たな文化も生まれ、平成21年には、総合文化複合施設「甑葉プラザ」が落成し、「読書シティむらやま」を宣言しています。
3 学校沿革の大要
明治6年より25年までの校舎などの変遷および主なできごと(PDF:103KB)
明治27年より昭和49年までの校舎などの変遷および主なできごと(PDF:132KB)
昭和50年より昭和63年までの校舎などの変遷および主なできごと(PDF:122KB)
平成元年度より平成30年度までの校舎などの変遷および主なできごと(PDF:252KB)
令和元年度からの校舎などの変換および主なできごと(PDF:124KB)
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