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村山市の文化財(有形文化財 その2)

更新日:2022年3月22日

絵画の部(市指定1件)

小松沢観音の絵馬

  • 区分 市指定(平成24年11月29日指定)
  • 所在 村山市大字楯岡字小松沢
  • 所有 清浄院

指定されたものは、小松沢観音に奉納されてある179点の絵馬のうち、なりわい絵馬6点、ムカサリ絵馬70点です。
なりわい絵馬は豊穣、技術向上の祈願、感謝、また記録記念として納められたものです。ムカサリ絵馬は結婚せず若くして亡くなった子のため、本来なら挙げていたであろう婚礼の場面等を描き奉納したものであり、村山地方独自のものでしたが、近年は全国から奉納されています。

彫刻の部(市指定4件)

木造阿弥陀如来座像

  • 区分 市指定(昭和48年12月10日指定)
  • 所在 村山市楯岡笛田
  • 所有 父母報恩寺

この像は、膝前は別木をぎ付けていますが、一木造りと称されるものです。内刳うちぐりを施して古風で彫眼ちょうがんとなっていることや、円い両輪、優しい面相と、すべて藤原時代末期の特徴が見られます。また、衲衣のうえの衣文は少なく粗末に見え、胸部衿の部分に波状の衣文が見られるなど、宋画の影響を受けていることがうかがえます。
 
 ・像高 44.5cm
 ・全高 52.0cm

木造漆箔しっぱく阿弥陀如来立像

  • 区分 市指定(昭和48年12月10日指定)
  • 所在 村山市大字富並
  • 所有 西浄寺

玉眼ぎょくがん入り寄木よせぎ造りの漆箔の像で、上品下生じょうぼんげしょう来迎印らいごういんを結ぶ本格的な阿弥陀如来の立像です。桃山時代のものと推定され、よく当初の姿を留める、きわめて秀作であるといえます。
西浄寺の寺伝(文政6年(1823)3月、当山17世の記す縁起)によれば、10世代に天台宗から真宗大谷派に転宗した際に、本山より賜ったものとあります。その時期は慶長16年(1611)と記されていますが、像自体はこれより以前に作られたものです。
 
 ・像高 57.0cm

木造彩色さいしき地蔵菩薩立像

  • 区分 市指定(昭和53年7月3日指定)
  • 所在 村山市大字富並
  • 所有 愛宕神社

室町時代の作と推定されます。玉眼入り、寄木造り、木造彩色の法量豊かな立像のうえ、造形も優れたものです。台座(蓮華)及び円光は残っていますが、錫杖、白毫びゃくごうは後に補ったものです。
愛宕神社は、明治11年(1878)の『山形県管内神社名簿』にも載っており、古くから村の社として祀られていたことから、本地仏ほんじぶつであったろうと思われます。この地区の仏教文化を考えるに極めて重要な仏像です。
 
 ・像高 1.21m
 ・肩張 37.0cm
 ・据張 35.5cm

木造漆箔しっぱく聖観音しょうかんのん立像

  • 区分 市指定(昭和53年7月3日指定)
  • 所在 村山市楯岡湯沢
  • 所有 祥雲寺

この聖観音は、別名安産守護観世音菩薩とよばれ、玉眼入りの寄木造りで鐶釧かんせんが共彫りの優れた立像です。天衣は後に補ったものですが、鎌倉時代の様式を持っており、特に面相は藤原的な面影を残す秀作で、貴重な仏像です。
  
 ・像高 42.5cm
 ・台座高 30.0cm
 ・肩張 10.5cm
 ・裾張 10.5cm

工芸品の部(市指定2件)

銅造阿弥陀如来座像

  • 区分 市指定(昭和34年11月5日指定)
  • 所在 村山市楯岡笛田
  • 所有 父母報恩寺

この阿弥陀如来は、松岡白雄和尚の建立した浄土宗父母報恩寺の本尊仏です。金銅造りの座像で、正式には一万五千日回向仏と呼ぶべきものでしょう。もとは、浄土宗本覚寺の末寺で、現在の東沢公園にあった見生庵(念佛堂)に寄進された露座の大仏で、通称濡仏様と呼ばれてきました。明治元年(1868)に本覚寺に、その後父母報恩寺境内に移され、大正年間に本尊仏として堂内に安置されました。
この像は、日塔又右衛門という人の発願で、一般から浄財を募り、京都の釜座和田信濃掾によって鋳造され、正徳5年(1715)3月20日に完成しました。台座には4段に渡って法名490体、氏名260名など、2979字にのぼる文字が刻まれています。
 
 ・座高 1.82m
 ・全高 2.30m

銅造観世音菩薩立像

  • 区分 市指定(昭和48年12月10日指定)
  • 所在 村山市楯岡大沢川
  • 所有 個人

この像は、両手を胸の前で水平に重ねる梵篋印ぼんきょういんを結んでおり、これは善光寺式一光三尊仏の両脇侍立像にのみ見られるものです。
通常、この観世音菩薩像は、化仏阿弥陀如来像を戴いていますが、尊像の代わりに九字名号か十字名号をもって代え、光を表わす宝石を嵌入したものがいつか失われ、現在は一小孔を留めるに至ったものと思われます。ただし、この像が元来、三尊一具のものであったか、当初から独尊像であったかは明らかではありません。
面相は優れ、衣文も整然と表わされています。また、左右の肩部で両腕を取り外しのできる、寄吹きという特異な鋳造法によるもので、この種の尊像が多く作られた鎌倉時代末期の製作と推定されます。

 ・像高 30.3cm

典籍の部(市指定2件)

羽黒堂写経(大般若波羅密多経残巻)

  • 区分 市指定(昭和34年11月5日指定、昭和35年11月9日追加)
  • 所在 村山市大字大久保ほか
  • 所有 個人

この写経巻子は、長善寺の羽黒神社(神仏分離して村社になる前は羽黒堂)に所願2求のために、大般若経600巻を写経して納経されたものです。羽黒堂の衰微とともに四散し、現在確認されているのは6巻だけです。
写経の年号である延文5年(1360)と貞治3年(1364)はともに北朝年号であり、岩波石行寺(山形市)の大般若経折本仕立とともに県内では最も古いものです。

紺紙こんし金泥経きんでいきょう大智度おおちど第二十九品釈論ほんしゃくろん

  • 区分 市指定(昭和54年2月9日指定)
  • 所在 楯岡村山市楯岡新町
  • 所有 個人

本経巻は、紺紙に金泥で書かれたいわゆる紺紙金泥経であり、縦26cm、長さ6.60mの巻子1巻です。
その伝来について、添え書きによると、文治5年(1189)源頼朝の奥州征伐の時、中尊寺をはじめ、奥州藤原氏の文化を偲ぶものは、兵火によりことごとく灰塵と化したが、その1つ円隆寺の什物のうち、わずかに焼け残った経巻であるといわれています。
この大智度論は、大品般若経の注釈書で100巻中の第55巻で、紙質も保存も良好です。添え書きには鎌倉時代初期のものとあるが、むしろ平安時代末期のものと思われます。少しの欠損もなく、1巻全部が残っていることから貴重な文献です。

古文書の部(市指定16件)

最上楯岡元祖記

  • 区分 市指定(昭和41年7月25日指定)
  • 所在 村山市楯岡湯沢
  • 所有 祥雲寺

延宝5年(1677)の祥雲寺9代目住職・梵芸和尚が、寺に残されている古い記録や言い伝え等を整理書写して、寺の重宝としたものです。
内容は、前森氏のたも山月楯築城から里見氏、最上氏、楯岡氏の没落に至るまで大要と、楯岡氏時代における楯岡地区の各宗寺院、当時の字名、伝説、名勝等。また、祥雲寺の開山の由来及び歴代の住職等について記されています。

楯岡甲斐守書翰

  • 区分 市指定(昭和43年9月10日指定)
  • 所在 村山市楯岡晦日町
  • 所有 個人

この書翰は、楯岡甲斐守から原主税ちからに宛てたものです。
楯岡甲斐守光直は最上義光の弟で、元和2年(1616)から同8年(1622)までの楯岡城主でした。原主税は御典医であったといわれ、14世芦野玄東まで医療を生業としており、主税が何世かは定かではありません。
この書翰は、姫の疱瘡を治したことへの感謝状であり、楯岡城主関係の文書がほとんど残っていない中で、数少ない貴重な史料です。縦15cm、横38cm、軸物仕立。

高札

  • 区分 市指定(昭和48年12月10日指定)
  • 所在 村山市中央
  • 所有 村山市(最上徳内記念館)

この2面の高札は、いずれも慶応4年(1868)、湯野沢村(現楯岡湯沢)に掲げられたものです。切支丹宗制禁についての太政官の定書と、戌辰戦争後に「旧幕領地召上げにつき今後朝廷の御沙汰を待つべき」という奥羽鎮撫総督府からの通知です。
明治3年(1870)に高札が廃止されているため、高札としては最後の時期のものです。また、当時に掲げられた高札では唯一のもので、明治維新に関するものとして貴重な史料です。

宮林主膳正しゅぜんのかみ書状(楯岡甲斐守宛)

  • 区分 市指定(昭和51年7月20日指定)
  • 所在 村山市楯岡十日町
  • 所有 個人

この書状は、最上家親の近習である宮林主膳正親成が、主君の意を受けて、山形城三の丸の上屋敷にいた楯岡甲斐守に宛てた返事であり、使者左近が持参したものと思われます。
宮林主膳正は、主君家親よりいみなに「親」の一字を拝領するほど信頼の厚い近習の一人で、書状内容から見て元和2年(1616)正月5日の書状と推察されます。このことから、甲斐守光直は、この年の正月には楯岡城主に任ぜられ、楯岡甲斐守と称していたことがわかります。これは、滝田家文書による甲斐守の元和2年楯岡甲斐守入部説を裏付けるものと考えられ、楯岡甲斐守関係文書として貴重な史料です。
また、山形城内での城主と重臣の往来や、御能上演等の内容にも興味深いものがあります。

楯岡甲斐守宛書状(最上家信より)

  • 区分 市指定(昭和53年7月3日指定)
  • 所在 村山市楯岡新町
  • 所有 個人

この書状は、元和6年(1620)9月朔日付で、山形の最上家信が江戸にいた楯岡甲斐守に宛てたものです。
家信は元和6年、幕府より江戸城修築工事の命を受け、清水御門から和田倉御門までの普請を申しつけられました。この時、楯岡甲斐守は家信の命を受け、総奉行として東根景佐とともに同年3月出府して、8月末には工事の完成をみています。これは、その労をねぎらった書状です。
当時、家信は15歳の少年であったため、書状は祐筆ゆうひつ(文書・記録の作成を司る職)が記したものと思われます。
また、この翌々年の元和8年(1622)に、最上家は改易となります。甲斐守光直もこれに連座して、元和9年には除封のうえ細川忠利にお預けの身となっています。

最上徳内伝記(家大人小伝かたいじんしょうでん

  • 区分 市指定(昭和53年7月3日指定)
  • 所在 村山市楯岡新町
  • 所有 個人

漢文体の最上徳内の小伝です。娘婿の鍬五郎(享和元年没)が書いたものを、その死後に次男の鉄之助(文化7年没)が校定印刷したもので、文化初期、親族に配布したものとされています。
内容は、生家である高宮家の家系及び楯岡村に住みついた事情、父である甚兵衛の激励と徳内の出府勉学、そして天明5年(1785)初めての蝦夷地渡航から寛政11年(1799)までの事柄が、短い中に要領よく述べられています。
小冊子ながら板本であり、水戸の彰考館しょうこうかんにも同一の本が残っているなど、最上徳内の伝記として、最も古く、貴重な史料といえます。

最上徳内書状(笠原茂右衛門宛)

  • 区分 市指定(昭和53年7月3日指定)
  • 所在 村山市中央
  • 所有 個人

この書状5通は、いずれも最上徳内から楯岡村名主兼本陣の笠原茂右衛門へ宛てたものです。徳内が御簾中ごれんちゅう御広敷添番おひろしきそえばん転役前後(53歳から59歳)の書状ですが、公人としての徳内がいかに勤勉実直かつ積極的であったか、また、私人としては、母への孝心・郷里への思いやり等がよくわかる書状です。

最上徳内書状(高宮太右衛門宛)

  • 区分 市指定(昭和53年7月3日指定)
  • 所在 村山市中央
  • 所有 村山市(最上徳内記念館)

この2通の書状は、高宮総本家の太右衛門家に伝来されたもので、文政年間の徳内晩年(74歳から75歳)の書状です。高宮家の家系や当時の幕臣の拝領屋敷、その替地、借地等の事情もわかり、また、郷里の好学の青年を親切に世話しようとする愛郷心が窺える書状です。

最上徳内筆(添觸そえぶれ 包み紙)

  • 区分 市指定(昭和53年7月3日指定)
  • 所在 村山市中央
  • 所有 村山市(最上徳内記念館)

これは、文化8年(1811)に楯岡村の高宮太右衛門ら3名が江戸から帰郷する際、徳内がその手筈を整えたことがわかる資料です。
徳内の母への用事のために3人を遣わすということにして、宿場の役人宛てに荷物の継立や旅宿の世話等依頼のため、自筆の添觸を携行させました。
徳内の親切で義理固い性格がうかがえるとともに、当時の旅行の形態がわかるなど、興味深いものがある資料といえます。

最上徳内筆(高宮太右衛門所用駄賃帳だちんちょう

  • 区分 市指定(昭和53年7月3日指定)
  • 所在 村山市中央
  • 所有 村山市(最上徳内記念館)

これは、文化8年に高宮太右衛門らが江戸から帰郷の際、添觸とともに携行使用させた駄賃帳です。表と裏に木製の表紙をつけ、間に駄賃帳が挟んであります。
木製の表紙及び駄賃帳の中央、左下の文字は、いずれも最上徳内の自筆であり、添觸のほかに駄賃帳まで準備している徳内の人柄がうかがえます。
駄賃帳は、奥州街道千住宿(東京都足立区)から羽州楯岡宿まで、各宿々の門屋、馬さし等の書いた駄賃の受取りで、当時の旅行や駄賃帳の様式・荷物の継立・受領証等がわかる興味深い史料です。

 ・木製表紙 18cm×13cm
 ・駄賃帳  17.5cm×12cm

最上徳内著書(度量衡説統どりょうこうせっとう

  • 区分 市指定(昭和53年7月3日指定)
  • 所在 村山市中央
  • 所有 村山市(最上徳内記念館)

この本は、文化元年(1804)嵩山房から発刊された板本3冊で、全6巻、すべて漢文です。序文は山本北山、跋文は桂川甫周が執筆しています。
日中両国の度量衡の変遷と、その比較考証をしたもので、これより以前に荻生徂徠兄弟の『度量衡考』、山田宗俊の『権量揆乱』がありましたが、それらの欠点を正そうとしたものです。広く古今の文献を引用し、また自説をも加えての精緻的確な考証と、簡潔明快な論断がこの本の特徴です。
当時、儒中の儒といわれた山本北山が、序文の中で『一世の軽薄無用学者に是書を見せしめば学問の尊貴ここにある事を知らしめん』とまで激賞している名著です。
また、数多い彼の著書のうち、刊行されたものは意外に少なく、貴重なものです。

最上徳内著書(伝自筆本でんじひつぼん 蝦夷草紙えぞそうし

  • 区分 市指定(昭和53年7月3日指定)
  • 所在 村山市中央
  • 所有 村山市(最上徳内記念館)

開巻第一行に『蝦夷国風俗人情之沙汰序 一名蝦夷草紙』とあり、蝦夷草紙前篇にあたります。
この本は、寛政2年(1790)の青島俊蔵事件に連座する形で、師である本多利明に預けられている間に起稿し、同年6月に脱稿したものです。本多利明が序文を加え『蝦夷国風俗人情之沙汰』と題して幕府に申し出た結果、これが認められた徳内は無罪放免となります。同時に普請役下役として士分に取り立てられた記念すべき著書ともいえます。
内容は3巻に分かれており、松前・蝦夷地・千島・樺太・シベリア・満州等に関する見聞の事柄を詳細に書き記し、日本の北方地域の存在を知らしめました。当時から名著として高い評価を得て盛んに写本され、蝦夷地派遣の役人等からは予備知識として必携の書といわれました。

伝徳内所用遺品(矢立 測量器)

  • 区分 市指定(昭和53年7月3日指定)
  • 所在 村山市中央
  • 所有 村山市(最上徳内記念館)

これらは、最徳内愛用の「矢立」と徳内所用の「測量器」と伝えられているものです。
矢立は、長さ18.5cmで、徳内が常に携帯したものであろうと思われます。

測量器は、高宮太右衛門家に伝来されたもので、縦7cm、横3.8cm、厚さ1cmの精巧なものです。
これら2品は、昭和18年の最上徳内関係資料展覧会にも出品されており、徳内の遺品として大変貴重なものといえます。

足利尊氏御教書みきょうじょ

  • 区分 市指定(昭和54年2月9日指定)
  • 所在 村山市中央
  • 所有 村山市(最上徳内記念館)

建武3年(1336)11月1日付で、足利尊氏から星尾寺(広隆寺)長老に宛てた御教書です。
元弘の乱以来、広隆寺は足利氏に味方していたため、後醍醐天皇から寺領を没収されていましたが、再びもとのとおり知行すべきことを認める内容となっています。
この頃、尊氏は光明天皇を擁立するとともに、比叡行宮から後醍醐天皇の還御にも成功し、建武式目を決定するなど、専ら戦後の政治工作に力を入れていた時でした。
用語が簡明にして、要をつくしていることや、尊氏の花押の整然として端厳なことなど、尊氏の雄健な性格がうかがえる史料であり、鎌倉末期のもので市内唯一の中世武家文書としても貴重なものです。

最上徳内書状(本多舎蔵宛)

  • 区分 市指定(平成24年11月24日指定)
  • 所在 村山市中央
  • 所有 村山市(最上徳内記念館)

最上徳内が息子の家督相続と徳内の添番役について幕府にお願いしていたところを文政7年12月14日に許されたこと、また70歳精勤に伴い、若年寄の列席にて褒美を頂戴したことを吹聴するという内容です。
本多舎蔵とは八王子下谷保村(現国立市谷保)の村医者で、徳内が八王子管材監督として出張した折に交流した人物であり、徳内の晩年の身の振り方と生活の一面がわかる大変貴重なものです。

孝經謹奉進こうきょうきんほうしん上巻(最上徳内著)

  • 区分 市指定(平成26年2月27日指定)
  • 所在 村山市中央
  • 所有 村山市(最上徳内記念館)

最上徳内著『孝經謹奉進』上巻の初稿本は「考経白天章」と名付けられ、文政2年から文政8年頃に発刊されたといわれており、文政11年春には三条前内大臣に献上されています。
内容は、日本に伝わった中国の古典である『孝経』を徳内自身が年代順に考察し、研究されたものとされ、上巻のみが刊行されています。
刊本のために、徳内一家が協力し合ったことが書き出しに載っている名前から知ることができ、晩年の徳内の漢学者としての才覚と学問への情熱が読み取れる貴重な資料といえます。

考古資料の部(市指定1件)

村山市並びにその周辺からの出土品

  • 区分 市指定(昭和34年11月5日指定)
  • 所在 村山市大字山の内ほか
  • 所有 村山市

この考古資料は、元村山農業高等学校(現村山産業高等学校)教諭の吉田茂氏が、教え子とともに20年にわたって発掘収集した石器や土器類で、系統的に調査整理された貴重な資料です。保管の万全を期すため、包括して文化財として指定し、保存しています。
その数は、旧石器時代の石器から古墳時代の土師器はじき須恵器すえきにいたる、約1,000点以上に及びます。

問い合わせ

生涯学習課
電話:0237-55-2111 ファックス:0237-55-2155

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