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最上徳内記念館

更新日:2019年7月22日

最上徳内記念館の企画展はこちら

最上徳内(1755-1836)は、江戸時代後期に活躍した村山市楯岡出身の北方探検家です。幕府の蝦夷地検分隊の一員として蝦夷地(北海道)に赴いたことをきっかけに、その後9回に渡り蝦夷地に赴き調査を行います。その範囲は、択捉島・国後島などの北方諸島も含む広範囲に及び、その業績は探検家として高い評価を受けました。
記念館では、この偉大な業績を後世に伝えていくため、使用された測量器や北方の地図、択捉島に建立した標柱などの資料を展示しています。

最上徳内の略歴

最上徳内は、宝暦5年(1755)出羽国村山郡楯岡村(現在の村山市楯岡)に父・甚衛兵(または甚介)、母・スマの長男として生まれました。
幼名を元吉といい天明5年(1785)の幕府蝦夷地探検の前年に最上徳内と名乗りました。
字は子員、号は鶯谷、甑山、白虹斎と称し晩年には億内とも呼ばれています。
家業は、農業のかたわら、たばこ栽培を営んでおり、青年期には隣町である谷地(河北町)の津軽屋に奉公し、仙台・南部・津軽まで行商に出かけたといわれています。
父が、徳内に向かって「男子たるものは、若干にして生涯の志を立つべきものである。汝どのような心構えがあるか」と聞いた際には、「蝦夷一円、本朝開闢以来人倫の教導なしと聞いているが、願わくば一度かの地に入り、かの土人に本朝農民のごとくに耕作の諸事を教え蝦国を上国の風に習わしたい」と語ったというエピソードが残っています。また20歳の時、東にそびえる甑岳に登り、武士となる決心をしたとも言われています。
このエピソードからもわかるように、徳内には早くから蝦夷地への思いと武士になる志が芽生えていました。徳内の精神ともいえる信念の強さがここから生み出されたものと思われます。

天明元年(1781)江戸に出た徳内は、たばこ屋に奉公し、その後まもなく幕府の医官・山田宗俊(図南)について医学を学び、更にその後、和算の師・永井正峯と算学修業に出かけますが、正峯の病気のために中止となります。
この頃、徳内の生涯の師となる本多利明の音羽塾に入門し、天文・測量・航海術を学び、かねてより考えていた蝦夷地への夢が、思わぬ算学修業中止になったことより実現することとなりました。

天明4年(1784)幕府内では、ロシアの南下対策として、蝦夷地の開拓と交易を目的とした蝦夷地検分・蝦夷地開拓の話が持ち上がり、老中・田沼意次は蝦夷地探検隊を組織し、天明5年(1785)に山口鉄五郎・庵原弥六・佐藤玄六郎・皆川沖右衛門・青島俊蔵の5人の普請役を蝦夷地に派遣することとなりました。俊蔵と親しかった本多利明も参加することになっていましたが、急病のため参加することが叶わず、代理として最上徳内が竿取りという身分で参加することとなります。これをきっかけに最上徳内が歴史上に登場することになります。

これ以後1809年まで9回の幕府蝦夷地探検に従事しました。
徳内が従事した蝦夷地探検の中で、重要なものとして天明6年(1786)の探検があげられます。
徳内は、単身エトロフ島に渡り、ここでロシア人が滞在していることを知ります。
イジョヨ・サスノスコイ・ニケタの3人と出会い、千島が列島であることや欧州地誌を知ることになります。
徳内はアイヌ民族・ロシア人の中で、ただ1人の日本人でしたが、歌い・踊り、あたたかな三か国人交流がなされました。
徳内は、ロシア人を、クナシリ島に来ている隊長の青島俊蔵に会わせ、時期の遅れないうちにウルップ島の最北端まで渡り、日本で最初にウルップ島に渡海した人物となったのです。
寛政10年の蝦夷地探検では、徳内は駿河・遠州の山々の監察をしていましたが、急遽、蝦夷地探検を命ぜられました。
この探検は幕府が蝦夷地を直轄地にするためであり、近藤重蔵が隊長となりクナシリ島からエトロフ島を回る渡海でした。
この時、重蔵はまだ若く蝦夷地の経験がないため、徳内を加えてもらおうと幕府に要請し、クナシリ島で徳内と出会い大いに歓迎しています。
徳内と近藤重蔵一行は蝦夷舟でエトロフ島に上陸し「大日本恵登呂府」の標柱を建立しました。歴史上初めてとなるエトロフ島までの日本領土宣言です。
この二つの探検が徳内を国際的視野に立つ歴史上の重要人物たらしめているのです。

晩年徳内は、長崎から江戸参府としてオランダ商館長に随行してきたオランダ商館長医師・シーボルトに出会います。
会談の中で、日本・支那・西洋の数学やアイヌ民族の風俗・カラフトの地図などを渡しました。
徳内は数十日間シーボルトとアイヌ語の共同編纂を行います。
後にシーボルトは、「尊敬すべき老人」「尊敬すべき老友」「今世紀における最も卓越した探検家」と高く評価しました。
徳内はシーボルトの出会いから10年後、天保7年(1836)浅草の田原町で82歳の生涯を閉じました。
彼の墓は現在、本郷駒込蓬莱町の蓮光寺に葬られており東京都の指定文化財となっています。

施設概要

  • 地階(RC造):展示室1・ホールなど
  • 一階(木造):古民家(展示室2)
  • 庭園:池(北海道・樺太・千島のミニチュア)・顕彰碑・胸像・歌碑・徳内基準点(経緯度標)
  • アイヌの館(住居=チセ)
  • 駐車場:施設前に6台。西隣の市役所駐車場に駐車可能(大型バスも可)

アイヌのやかた

最上徳内が北方を探検する際にアイヌの人達と寝食を共にし、アイヌの協力があって偉業を成功させることができました。
このように当時アイヌの人々との交流を持っていた最上徳内を偲ぶために、住居全体が茅(葦)葺きのアイヌの住居(チセ)を敷地内に復元建立し、アイヌの衣装や生活用具等の展示をしています。

利用案内

開館時間  午前9時から午後5時(入館は午後4時30分まで)
休館日   毎週水曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始休業
         ※上記以外の日でも展示替え等により臨時休館になる場合があります
入館料   大人300円、高校生以下無料(8名以上の団体は大人250円)

入館料の優待・減免について

JAF会員証・SDカード

JAF会員証またはSDカードをお持ちの方は、受付でご提示いただくことで、入館料が無料となります。
また、同伴者は全員50円引き(団体料金と同額)となります。詳しくはお問い合わせください。

障害者手帳

「障害者手帳」(身体・精神・療育手帳)をお持ちの方は、受付でご提示いただくことで、入館料を半額に割引します。
また、「障害者手帳」をお持ちの方で付き添いが必要な場合は、手帳をお持ちの方一人につき一人の入館料を半額に割引します。詳しくはお問い合わせください。

アクセス

奥羽本線JR村山駅下車 東口からバス・タクシーで5分、西口から徒歩で15分
山形空港から車で15分

最上徳内記念館への問い合わせ

最上徳内記念館
〒995-0035
山形県村山市中央一丁目2番12号
電話:0237(55)3003 ファックス:0237(55)3630
メールアドレス:tokunai@city.murayama.lg.jp

問い合わせ

生涯学習課文化係 内線333
電話:0237-55-2111 ファックス:0237-55-2155

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村山市役所
村山市役所
〒995-8666 山形県村山市中央一丁目3番6号
電話:0237-55-2111(代表) 法人番号5000020062081
開庁時間:月曜日から金曜日の午前8時30分から午後5時15分まで(祝日および12月29日から1月3日を除く)
※日曜市役所(諸証明の発行など)は午前8時30分から午後0時30分まで(12月29日から1月3日を除く)
※施設によって開館時間が異なりますので事前にご確認ください。
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